人生の最優先事項 [生き方]
一人になってみて、いろいろなことに気づきます。たとえばそれは、いかにラッキーな人生を歩んでこれたかといったようなこと。
当時は忌々しいだけだったあの会社員生活も、今振り返ってみれば、たくさんの出会いに恵まれ、生きていくうえで大切なことを教えてもらえたことに気づきます。
社内の決めごとにいちいち異を唱えていた私は、常に上司や諸先輩方の監視のもとにいたと思いますが、今の自分の身に置き換えれば、じつは暖かい眼で見守ってくれていたのだと、この年齢になってようやくわかってきました。
もしも今、当時の私に出逢ったとしたら、ただ嫌いなヤツに映るに違いありませんから。
辞表を出した時、出版営業のおじさん社員から、渋谷の喫茶店に呼び出され、「お前がすごく心配だ」と長い時間、これからのことを問いただされたことなど思い出したりします。
わずか3年の会社員生活でしたが、今も親しくさせてもらっている同僚、諸先輩、後輩がいます。
それから自分の行く道だけを信じて突き進んでこられたのは、まさに奇跡だった。そんなことがようやく今、理解できるようになってきました。
思慮が足りず、人間として未熟だった自分の姿も冷静につかめるようになりました。
今になって、大切なものを手放すことになってしまったけれど、なんというか、失ったもの以上に、得ているものの多さに驚きます。
特に、毎日起こることの意味が以前より鮮明にわかるようになりました。人が生きていくうえで大切なものは何かといったことも、ちょっとずつクリアになってきました。
最近、気づいたことの中で、もっとも衝撃的だったのは、人生における優先順位です。
人生の中で、優先順位ナンバー1とはいったい何なのか。
仕事、家庭、友だち、世間の目…など、命を使ってしかるべきと思いこんでいた対象。それらはもしかすると、あやういものでしかなかったのかもしれない。
優先すべきはものはもっとほかにある。
それはなにか。
自分です。
あなた自身であり、私自身です。そのことに、やっと気づきはじめています。
それは間違っても自己愛や利己的思考を意味するのではない。
大切にすべき対象を大切にできるだけの自分を育て、成長させる。そのことがまずは大事なのだという気づきです。
自分で自分を大切にすることができない者は、何物も大切にできないに違いありません。
聖書には、隣人を愛しなさいとあります。うっかりすると、自分を犠牲にしてでも他人を大切にせよ、というニュアンスで受け取りがちです。特に日本人は。でもそれは誤った解釈です。
あの聖句には、「自分を愛するごとく」というフレーズが行間に含まれています。
自分を愛するとは、ナルシシズムとは一番遠い、「神があなたがたを愛するごとく」の意味であり、天から与えられた尊い命に思いを馳せ、それにふさわしい人生の旅を歩むことでしょう。
自分を大切にすべき存在として丁寧に扱っている人が今、どれほどいるでしょう。こういう感覚、日本人は苦手ですね。主君のためにいつでも命を投げ打つことを美徳とするサムライ魂は、今も日本人の心のどこかに根づいています。
しかし、そのサムライも、もっとも大事にしたのは、実は己であったはずです。そうでなければ主君のために命など捧げられるはずがない。
今、あなたが一番大事にしているなものは何ですか。
それよりもはるかに自分のほうが大事なのだと、想像してみてください。
毎日、いろいろなことが起きますが、そんな中でいかに自分を大切にして生きていけるか。これこそが人生の課題なのだと気づいてきたところです。
そして何が起ころうと、そのどれもが必然であり、起こるべくしてベストなタイミングで起こっていると解釈していく。それが人生における人間の修行なのでしょう。
七々三
当時は忌々しいだけだったあの会社員生活も、今振り返ってみれば、たくさんの出会いに恵まれ、生きていくうえで大切なことを教えてもらえたことに気づきます。
社内の決めごとにいちいち異を唱えていた私は、常に上司や諸先輩方の監視のもとにいたと思いますが、今の自分の身に置き換えれば、じつは暖かい眼で見守ってくれていたのだと、この年齢になってようやくわかってきました。
もしも今、当時の私に出逢ったとしたら、ただ嫌いなヤツに映るに違いありませんから。
辞表を出した時、出版営業のおじさん社員から、渋谷の喫茶店に呼び出され、「お前がすごく心配だ」と長い時間、これからのことを問いただされたことなど思い出したりします。
わずか3年の会社員生活でしたが、今も親しくさせてもらっている同僚、諸先輩、後輩がいます。
それから自分の行く道だけを信じて突き進んでこられたのは、まさに奇跡だった。そんなことがようやく今、理解できるようになってきました。
思慮が足りず、人間として未熟だった自分の姿も冷静につかめるようになりました。
今になって、大切なものを手放すことになってしまったけれど、なんというか、失ったもの以上に、得ているものの多さに驚きます。
特に、毎日起こることの意味が以前より鮮明にわかるようになりました。人が生きていくうえで大切なものは何かといったことも、ちょっとずつクリアになってきました。
最近、気づいたことの中で、もっとも衝撃的だったのは、人生における優先順位です。
人生の中で、優先順位ナンバー1とはいったい何なのか。
仕事、家庭、友だち、世間の目…など、命を使ってしかるべきと思いこんでいた対象。それらはもしかすると、あやういものでしかなかったのかもしれない。
優先すべきはものはもっとほかにある。
それはなにか。
自分です。
あなた自身であり、私自身です。そのことに、やっと気づきはじめています。
それは間違っても自己愛や利己的思考を意味するのではない。
大切にすべき対象を大切にできるだけの自分を育て、成長させる。そのことがまずは大事なのだという気づきです。
自分で自分を大切にすることができない者は、何物も大切にできないに違いありません。
聖書には、隣人を愛しなさいとあります。うっかりすると、自分を犠牲にしてでも他人を大切にせよ、というニュアンスで受け取りがちです。特に日本人は。でもそれは誤った解釈です。
あの聖句には、「自分を愛するごとく」というフレーズが行間に含まれています。
自分を愛するとは、ナルシシズムとは一番遠い、「神があなたがたを愛するごとく」の意味であり、天から与えられた尊い命に思いを馳せ、それにふさわしい人生の旅を歩むことでしょう。
自分を大切にすべき存在として丁寧に扱っている人が今、どれほどいるでしょう。こういう感覚、日本人は苦手ですね。主君のためにいつでも命を投げ打つことを美徳とするサムライ魂は、今も日本人の心のどこかに根づいています。
しかし、そのサムライも、もっとも大事にしたのは、実は己であったはずです。そうでなければ主君のために命など捧げられるはずがない。
今、あなたが一番大事にしているなものは何ですか。
それよりもはるかに自分のほうが大事なのだと、想像してみてください。
毎日、いろいろなことが起きますが、そんな中でいかに自分を大切にして生きていけるか。これこそが人生の課題なのだと気づいてきたところです。
そして何が起ころうと、そのどれもが必然であり、起こるべくしてベストなタイミングで起こっていると解釈していく。それが人生における人間の修行なのでしょう。
七々三